関東三大祭の異説


関東三大祭の異説

前項では「関東三大祭」として、規模が大きく、また歴史が色濃く残る「石岡のお祭」「佐原の大祭」「川越祭」をご紹介しましたが、「三大祭」は言う人によって違うもの。ですから、ここでは「関東三大祭の異説」として、他にあがる祭のうち「日光東照宮春季大祭」「秩父夜祭」「浜降祭」をご紹介します。

日光東照宮春季大祭(にっこうとうしょうぐうしゅんきたいさい)

1000人を超える大行列「百物揃千人武者行列」
1000人を超える大行列「百物揃千人武者行列」

毎年5月に開催される日光東照宮春季大祭は、参道を往復する豪華絢爛な渡御祭(とぎょさい)の「百物揃千人武者行列(ひゃくものぞろえせんにんむしゃぎょうれつ)」が有名です。

東照宮に祭られた3人の神々(徳川家康公、豊臣秀吉公、源頼朝公)が分乗した3基の神輿と神職、鎧武者、槍持ち、獅子など総勢1200人あまりの武者行列は1キロにも及び、隊列を組んで練り歩く光景は圧巻です。これは、かつて徳川家康公の神霊を駿府久能山から日光へ移した際の行列を再現したものです。
行列は午前に御旅所へ向かう「渡御」、午後、御旅所から東照宮へ戻る「還御」がありますが、「渡御」の時間のみ表参道の沿道に有料の桟敷席が設けられます。

他に、表参道下から東照宮に向かって疾走する馬上から的を射抜く「流鏑馬神事(やぶさめしんじ)」や、神輿3基が日光二荒山神社に出向く祭儀「宵成祭(よいなりさい)」、御旅所の前にある拝殿にて巫女が舞を奉納する「御旅所祭」も古式雅やかで一見の価値があります。

世界遺産・日光東照宮は徳川家康死去の翌年の元和3年(1617年)に創建された神社です。例大祭は春と秋に行われますが、春季大祭は主祭神・徳川家康公の命日(4/17)にちなみ新暦の5/17、18に行われています。
江戸時代には、この渡御祭には京から例幣使(神社に奉納するために天皇から派遣された使者)がつかわされていたと記録が残っています。


【日光東照宮春季大祭データ】
会期
5/17~5/18
主な行事と会場
5/17〈流鏑馬神事〉 東照宮石鳥居手前の山内表参道大手通り
5/18〈渡御祭「百物揃千人武者行列」〉 二荒山神社~東照宮表門前~御旅所~東照宮
問い合わせ先
日光東照宮 栃木県日光市山内2301
日光観光協会


秩父夜祭(ちちぶよまつり)

冬の夜空に浮かぶ重厚な屋台が夜祭の見どころ
冬の夜空に浮かぶ重厚な屋台が夜祭の見どころ

毎年12月に開催される「秩父夜祭」は、地元の人達からは“冬祭”と呼ばれており、大切に守られ続けてきた行事です。一帯の総鎮守である秩父神社の例大祭であり、その起源は江戸時代にまでさかのぼります。秩父は古くから絹織物の産地だったため、江戸時代には祭りとともに絹取引の市が立ち、秩父の経済を大いに潤したことから、「お蚕(かいこ)祭り」とも呼ばれます。

見どころは、絢爛豪華な屋台と笠鉾の曳き廻し、神代神楽、そして花火。江戸の囃子や祇園の囃子の調子とは違った、地響きのような豪快なリズム、お囃子、掛け声が賑やかです。
クライマックスは、目的地である“御旅所”に着く直前の、団子坂の曳き上げです。12~20tもある屋台と笠鉾が、段丘崖の急坂を、高まる掛け声に合わせて曳き上げられるさまは、圧巻です。幻想的で勇壮な夜祭として、全国から多くの観光客が集まります。

そもそも秩父神社は平安初期に記録が残るほど、関東でも屈指の古社の一つです。ですからその祭礼も、古代から続く伝承祭祀であり、国指定重要無形文化財となっています。花火などは近代になって加わった行事ですが、遅くとも江戸時代の寛文年間には笠鉾や屋台の曳き廻しが行われていたようです。
2016年には「秩父祭の屋台行事と神楽」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。


【秩父夜祭(秩父神社例大祭)データ】
会期
12/2~12/3
主な行事と会場
12/2〈宵宮〉 秩父神社(屋台曳き廻しは秩父市街地を巡行)
12/3〈大祭〉 秩父神社(屋台曳き廻しは秩父市街地を巡行)
12/2-3〈花火大会〉 羊山光園
問い合わせ先
秩父神社 埼玉県秩父市番場町1-3
秩父観光なび(秩父市公式サイト)

浜降祭(はまおりさい)

海に入り、みそぎする神輿
海に入り、みそぎする神輿

毎年湘南の海で、海の日に開催される「浜降祭」は、その名の通り、神輿を担いで浜から海に入り、禊ぎ(みそぎ)を行う祭です。神奈川県無形民俗文化財です。

夜明け時に、寒川・茅ケ崎の神社から約40基の神輿が茅ヶ崎西浜海岸に集結します。「どっこい、どっこい」の掛け声も勇ましく、砂浜に大小の神輿が乱舞する光景は壮観です。朝日の海に水しぶきを浴びて勇壮に入る神輿の迫力は、地元の人に夏の到来を告げます。
各地の神社からの「宮出し」は夜更けの暗がりの中に始まり、浜に到着頃、日の出を迎えることから「暁の祭典」とも称されます。神輿はその後地元に戻り、町内各家々の「家内安全」「無病息災」を祈り練り歩きます。

浜降祭の起源は、天保年間(1840年頃)、寒川神社の神輿が、大磯で行われる国府祭(こうのまち)に渡御した帰りに、参加した神社の氏子たちが争いを起こし、御輿が相模川に落ちて行方不明となりましたが、南湖の鈴木孫七がご神体を発見し寒川神社に届けたことを契機に、寒川神社の神輿が南湖の浜で「禊(みそぎ)」をするようになったといいます。また、それより昔から鶴嶺八幡宮では、浜辺への御輿渡御が行われていたといいます。それらが合され、今の浜降祭となっています。


【浜降祭データ】
会期と会場
7月海の日
神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸
問い合わせ先
寒川神社鶴嶺八幡社など34社が参加
茅ヶ崎観光協会